Book*

ラルフ・イーザウ

書名出版社満足度
ネシャン・サーガ 1 ヨナタンと伝説の杖あすなろ書房★★★★
ネシャン・サーガ 2 禁断の地あすなろ書房★★★★
ネシャン・サーガ 3 イェーヴォーの呪いあすなろ書房★★★★
ネシャン・サーガ 4 三人の旅人あすなろ書房★★★★
ネシャン・サーガ 5 セダノール幽閉あすなろ書房★★★★
ネシャン・サーガ 6 第七代裁き司の謎あすなろ書房★★★☆
ネシャン・サーガ 7 新たなる旅立ちあすなろ書房★★★☆
ネシャン・サーガ 8 セダノール攻防戦あすなろ書房★★★★
ネシャン・サーガ 9 裁き司 最後の戦いあすなろ書房★★★★

「ネシャン・サーガ 1 ヨナタンと伝説の杖」  ラルフ・イーザウ著  あすなろ書房  ★★★★

あらすじ

少年ヨナタンは、ある日、自らの不注意により落ちてしまった洞穴の中で、不思議な杖を発見する。その杖の力によって、彼は、襲い来る怪物ツチクイを退け、無事、外の世界へ脱出することができた。

家に帰り、養い親であるナヴラン・ヤシュモンに事の次第を説明すると、驚くことに、ヨナタンが見つけたその杖こそ、第七代裁き司(=いずれ、この世に現われ、悪に染まったメレヒ=アレスを打ち破り、涙の地ネシャンを救うといわれる存在)に授けられる、伝説の杖ハシェベトだというのだ。そして、ヨナタンは、そのハシェベトを現職の裁き司ゴエルの住む「英知の庭」へと運ぶ、重要な役目を担う使者に選ばれたのだと……。ヨナタンの長い旅は、こうして始まりを告げたのであった――。

「悪を善によって打ち負かすのだ。それによってのみ光は闇に勝つことができる。全き愛とは、いかなる闇にものみこまれない光だ」

感想

ここではない、別の世界――。どこにでもいるような平凡な少年が、ある日、突然、下された使命を果たすために、困難な旅に出かけていくというのは、ファンタジーの「お約束」です。この、「ネシャン・サーガ」も、まさに、こうしたファンタジーの王道を行く物語なのですが、一つ、とても面白いなと思った設定がありました。それは、物語の主人公・ヨナタンの夢を見ているという、現実世界におけるジョナサンの存在です。

ジョナサンの視点が入ってくることで、「物語を読んでいる自分」というものを改めて意識させ、ヨナタンとジョナサン、ジョナサンと私といった具合に重ね合わせて感じられる妙が、何とも言えない味わいでした。「はてしない物語」の構成にも近いでしょうか。でも、この先、予想とはかなり違う方向に、ヨナタンとジョナサンの運命は交錯していくのですけれど……(^^;)。

◎     ◎     ◎     ◎     ◎

自分にとって、キリスト教というものがもっと身近であったなら、より、もう一人の主人公・ジョナサンのことを理解できそうであり、また違った印象を抱いたに違いない物語です。

「絶対」のない世の中に、「絶対」を与えてくれるのが、宗教や神様と言えるでしょうか。自分がどんな状況にあっても、「絶対」に揺るがない存在に、不思議と、人は救われることが多いような気がします。

宗教というのは、心の最後の砦のようなものなのかもしれません。現実の世界で起きる、さまざまな辛いこと、哀しいこと、苦しいことに、ずっとずっと、耐えて来た人が、それらの重みに潰されてしまいそうになった時――、家族を頼ることもあるかもしれないし、友達に助けてもらうこともあるかもしれない、けれども、それでも、どうしようもなくなって、最後の最後に縋りつく先が、宗教なのではないかと思います。

「絶対」の存在に、すべてを委ねてしまうことで、楽になる――最終的には、必ずまた、自分自身に還ってくるはずですが、とりあえずの心の預け先として、宗教が果たす役割は、非常に大きいものでしょう。

日本人の多くは、絶対の宗教を持っていません。クリスマスを祝い、お正月には神社を詣で、お葬式ではお坊さんにお経をあげてもらう――本当に何でもありです(^^;)。この、いろんな神様の存在を許容できるという柔軟さが、私はすごく好きですが(^^;)、しかし、何でも信じられるということは、裏を返せば、何も信じていないということにも繋がってしまうのかな、と。情報で溢れかえり、何が正しくて何が間違いなのか、信じられるべきものすら、あやふやになっている現在、確固たる支えを失った心は、ますます壊れやすくなってきているようにも思えます。

私自身も、特に信仰している宗教はありません。それが良いことなのか、悪いことなのか――もともと、良い悪いで論じる問題ではないのかもしれませんが――、判断することは難しいです。ただ、宗教であるにしろ、違う何かであるにしろ、やはり、「これだけは」と信じられるものが、人には必要ではないかなと感じています。

ヨナタンの夢を見るということは、信仰心の篤いジョナサンであっても、キリスト教という既存の宗教だけでは、病に冒された自分の現状を救い切れないと彼が感じ始めた徴候だったりして……。そう、宗教と共に、「物語」というのもまた、一つの大いなる心の支えとなるものだから――。

◎     ◎     ◎     ◎     ◎

人の行動の裏に隠されていた哀しみであるとか、忘れることによってもたらされる救いといった、自分にとってツボなエピソードや言葉も、数多く見受けられました。先の展開に期待を抱かせる、「ネシャン・サーガ」シリーズ第1作です。

(2006.03.15 読了)

「ネシャン・サーガ 2 禁断の地」  ラルフ・イーザウ著  あすなろ書房  ★★★★

あらすじ

メレヒ=アレスの軍勢を率いるゼトアによって、海に投げ出されたヨナタンは、奇跡的に一命を取り留め、永遠の防壁で目を覚ました。そして、彼は、何としても「英知の庭」にハシェベトを届けなければと、謎に包まれた「禁断の地」を通り抜けることを決意する。

商船で出会ったヨミと力を合わせて、禁断の地を進むヨナタンであったが、執拗にも彼を追って来たゼトア一行に見つかってしまった。絶体絶命のピンチに陥ったヨナタンは――。

一方、そうしたネシャン世界でのヨナタンの行動を、ずっと夢に見ている少年の存在が、この世のスコットランドにあった。病気により、車椅子での生活を余儀なくされているジョナサンである。夢とは思えない濃密な時間に記憶を奪われ、だんだんと不安を募らせるジョナサンであったが――。

ゼトアの部下にやったことは本当に善なるものとよべるのか?

感想

敵とはいえ、人を一人殺してしまったことに対するヨナタンの苦悩と迷いが、非常によく描かれた巻でした。「アイツは悪いヤツだ、だから殺してもいい」という論理は危険です。そこまで極論を出さないにしても、敵を殺すことに疑問を持たせない物語は、わりと存在するような気がします。

「仕方がなかった」と自分に言い聞かせつつ、「でも、他に手はなかっただろうか」「いや、やはり、ない」と、ぐるぐる悩みまくるヨナタンの姿が好きです。善を行おうとする過程において、自分は完全に善であり得るのか? 善を行う目的であれば、自分の行いはすべて善となり得るのか? 何の疑いも抱かない盲信は、それこそ、「悪」の道への第一歩となってしまいそうなので……。

選択は、自分自身で引き受けるべき痛みです。「○○だからやった」「○○のためにやった」と、責任転嫁することなく、行った行為は、善であれ、悪であれ、「『自分が』やった」のだということを、真摯に受け止める必要があるでしょう。

この先、ヨナタンが最終的に出す答えが、どういったものになるのか、非常に気になるところです。

(2006.03.17 読了)

「ネシャン・サーガ 3 イェーヴォーの呪い」  ラルフ・イーザウ著  あすなろ書房  ★★★★

あらすじ

辛くも窮地を逃れたヨナタンたちは、ベーミッシュの生き残りであるディン=ミキトに出会う。生き物と話すことができる彼は、禁断の地での生活の知恵を提供し、ヨナタンの傷が癒えるのを待つために、自分の家にかくまってくれた。

思いがけず訪れた、そのゆったりとした時間に、いつしか旅の目的を忘れかけてしまうヨナタン。そんな彼にヤキモキするジョナサンは、何とか、夢の世界の彼と交信ができないものかと考えていた。そして、ある夜、とうとう、二人の世界に道が通じ、ジョナサンとヨナタンは、相まみえることになった。

ジョナサンの注意を受け、再び、旅を続けることにしたヨナタン。ディン=ミキトの協力を得て、ようやく禁断の地の出口に辿り着いた彼の目の前に、またしてもゼトアの姿が立ちふさがるが――。

問題は何を憎むかで、だれを憎むかじゃない。

感想

使い方を一歩間違えれば、危険な武器にもなってしまう、コアハという力について、ヨナタンが、その正しさを、ただ闇雲に信じるのではなく、疑問という自らの考えを踏まえたうえで使うことを決意した巻です。

さて、愛と憎しみは紙一重だとは、よく言われることですが、物事は、そうそう完全に切り離せるほど単純なものばかりではありません。二分できないものや、曖昧な領域というものの存在を知っていく過程で、ヨナタンも、少しずつ、大人へと近づいていきます。

子どもの世界というのは、いわば黒と白がはっきり分かれた世界です。ところが、実際の世の中には、黒でもあり白でもあるグレーの領域が、たくさん存在するわけです。この、グレーの部分をどのように受け止めるかは、個人個人に任されて来ます。そんな「絶対」の存在を失った状態は、非常に心許ないものですが、しかし、そこで初めて、「選択の自由」が得られるのではないでしょうか。そして、自由である代わりに、その選択に対しての責任も生じてくるのです。

また、今まで、何の疑いも持っていなかった「黒」や「白」のモノに対しても、それは本当に「黒」なのか、もしかしたら、別の側面から見てみたら、「白」であったりはしないのかと、思い悩むことも出てくるはずです。「絶対」の喪失は、そうして、多くの迷いを生み出していきます。せっかく得られた自由な思想でも、やはり拠り所が欲しい――そんな時に人を支えてくれるのが、失われた「絶対」を、再び人に与えてくれる「信仰」なのかもしれません。

ただ、すべてを信仰の名の下に委ねてしまうことは、自分の考えの放棄に繋がってしまう気がするのですけれどね(^^;)。イェーヴォーへの信仰が、この「ネシャン・サーガ」の大きな基礎となっていますが、「信仰だけで、すべては解決するのか」という疑問を、今回初めてヨナタンが持ったことは、非常に意味のあることだと思えます。

最終的に、彼が導き出した答えは、「どんな考えや行為を選ぶかは、人間に任されている。その時、『善』なるものを選ぶ道は、必ず、提示されているけれども、そこで、『悪』を選んだとしても、その『悪』の考えや行為をのみ憎むべきで、選んだ主体である人は憎まない、それこそが、イェーヴォーの教えである『全き愛』の成せる業なのだ」というもので、イェーヴォーへの信仰を、いっそう強化させる結果となりました。

この「罪を憎んで、人を憎まず」という論理は、理解はできても、完全には受け入れられない感覚もあるのですが(^^;)、個人の選択の自由とイェーヴォーへの信仰を両立させるには、相応しい考え方であるのかな。

こうして、ヨナタンがいろいろ悩みながらも、結局は、イェーヴォーに対する信仰を揺らがすことにならない過程が、私には、よく見えないところがあって、少しだけ、物語に入り込めないところがありました。このあたり、キリスト教圏の人たちとの感覚の差なのでしょうか。とはいえ、シリーズ自体としては、だいぶ盛り上がってきて面白かったです。敵役・ゼトアの存在が、この先の展開の一つのポイントになりそうでワクワクします。

(2006.03.17 読了)

「ネシャン・サーガ 4 三人の旅人」  ラルフ・イーザウ著  あすなろ書房  ★★★★

あらすじ

夢の世界でのヨナタンの記憶に、現実の記憶を侵食されつつあるような不安に駆られるジョナサンは、日記をつけ始めることにした。もしかして、自分は夢の兄弟に力を吸い取られ、だんだんと弱っているのではないか――。そんなジョナサンの元に、家庭教師マーシャルが現われる。彼と意気投合し、少し元気の出たジョナサンであったが、祖父の書斎で見つけた古い羊皮紙に、再び、夢の世界との接点を見出すのだった。

一方、ディン=ミキトと別れたヨナタンとヨミは、またもや、危機に見舞われてしまう。海賊に捕まった彼らは、ギンバールという仲間を得て、何とか脱出を試みるが失敗したあげく、禁断の地を生き抜いたゼトアに引き渡されそうとしていた。そんな彼らの窮地に現われたのは――。

自足することができ、理にかなった行為のできる者は、自分の歩む道で幸運に恵まれ、ほかの人々も幸福にすることができる。

感想

ネシャンの地でヨナタンとなって旅をすることは、現実世界のジョナサンの力になっているものとばかり思っていましたが、逆に、ジョナサンの生命力を、どんどんと吸い取るものであったようです。現実を侵食していく夢――この展開には、なかなかに驚かされるものがありました。

さて、ヨナタン一行に、新たに仲間が加わりました。海賊のギンバール。ヨミとはまた、かなり違ったタイプの人物です。現実世界の方でも、マーシャルという、一風変わったジョナサンの家庭教師が現われるなど、彼らの今後の関わりには、たいへん興味を覚えます。いろいろ活躍してくれるといいなあ。

また、ジョナサンが祖父の書斎で見つけた、ヨナタンの描かれた羊皮紙が告げる預言の内容など、ネシャンと現実世界の繋がりの謎も、少しずつ明らかにされ出した感があります。この後、ヨナタンの辿る道は、私にとって、当初の予想通りでしたが、ジョナサンの未来については、まったく考えつかないものだったのですよねえ(^^;)。そんな先行きに、そこはかとない緊張感が感じられ始めた巻。「ネシャン・サーガ」のもう一人の主人公であるジョナサンは、いったい、どうなっていくのでしょうか。

(2006.03.18 読了)

「ネシャン・サーガ 5 セダノール幽閉」  ラルフ・イーザウ著  あすなろ書房  ★★★★

あらすじ

当初の目的地であったセダノールに辿り着いたヨナタン一行は、早速、ナヴランから会って助言を得るように言われていたバルタンの屋敷に向かった。そこで、ヨナタンは、「夢見人」と「裁き司」の関係を知らされ、また、自分がその「夢見人」であることを告げられた。そんなヨナタンの来訪を聞きつけたセダン帝国の皇帝ツィルギスは、彼とハシェベトの力を利用しようと目論んでいた。宮廷に呼びつけられたヨナタンは軟禁状態に。

しかし、そこでは、第二皇子フェリンという新たな仲間を見出すことができた。彼の助力を得ながら、「空飛ぶ船」に乗って宮廷からの脱出を試みるヨナタンであったが――。

その一方、ヨナタンの夢の兄弟であるジョナサンは、夢の世界に力を奪われるかのように、次第に衰弱し始めていた。ヨナタンとジョナサンの向かう先には、いったい何が待ち受けているのか。

人が何かを知っていると思うのは、そうあってほしいと望んでいるにすぎないってね。信仰はちがう。『たとえ目に見えなくても真理の証が示され、望みがかなうと強く期待すること』と、ゼフェル・ショフェティムに書いてある。

感想

ジョナサンの衰弱が、ますます激しいものになってきています。生命の力を、ヨナタンにどんどんと吸収されていく彼は、いったいどうなってしまうのでしょう。

当初、ジョナサンとヨナタンの関係は「はてしない物語」のバスチアンとアトレーユのようなものだと考えていました。一心同体でありながらも、あくまでも別個の分身として存在している二人。そして、また、ネシャンは現実世界の一つの影であると――主格は、現実世界の方だと――捉えていたのですが……。どうやら、雲行きが少し怪しそうです(^^;)。

さて、お約束かもしれないけれど、いつも兄と比べられ、父帝から認められずに心を痛めているという設定のフェリンが好みでした(笑)。ハシェベトの杖の力を何とか手に入れようとするツィルギス帝が言い出した三つの難題。その、最後の難題で示された預言によれば、彼はただの第二王子で終わる人物ではないようです。ただ、そんな、輝かしくも感じられる未来の裏側には、二人の人間の死が隠されています。果たして、そこに到る過程で救いはもたらされるのか。非常に気になるところです。

また、過去に罪を犯したため、その贖罪として、自らを牢に閉じ込めるかのごとく、真っ暗闇の洞窟で長い時を過ごしている牢獄の看守・ベルヴィンの話にも、印象深いものがありました。

犯した罪に、あまりに囚われてしまうのも問題ですが、やはり、罪は罪として、抱え続けていかなければならないような気がします。

再生とは、ただ、すべてをリセットさせることではないでしょう。前の生をなかったことにしてしまうのではなく、その罪も、罰も――そして、痛みも、苦しみも、全部、自らのうちに受け入れたうえで、再び得られる生。過去を切り捨てることも時に必要だけれども、「切り捨てた」という記憶まで、自らの手で切り捨てては、何もかもが無意味な存在になってしまうので……。そうして、ようやく、贖罪は為され、やがて、忘却という名の赦しが、自然と与えられるのだと思います。

今回、ヨナタンがその役目を担っており、彼の言葉をきっかけに、看守は「昔のベルヴィンはここに残して、わしはいっしょに上にあがろう」と心を決め、光の世界に戻ってくるのですが、「昔のベルヴィン」の存在そのものを、消し去らないでほしいなと感じました。真の赦しは、もう少し先の方に、存在しているはずだから――。

忘れられないがゆえの苦しみや哀しみは、「ネシャン・サーガ」でも触れられていますが、完璧な記憶力を持つヨナタンの「救われなさ」は、もう少し、突っ込んだ描写があってもいいかもしれません。何となく、物語が進むに連れて、彼が、だんだんと、遠い存在になっていく感じがして、ちょっと寂しいな(^^;)。

(2006.03.18 読了)

「ネシャン・サーガ 6 第七代裁き司の謎」  ラルフ・イーザウ著  あすなろ書房  ★★★☆

あらすじ

空飛ぶ船の墜落という難事をどうにか切り抜け、バルタンの隊商と合流したヨナタンたちは、追っ手の目を逃れるため、過酷なマーラ砂漠を越えて、「英知の庭」を目指すことにした。途中、バール=ハッザトの起こした砂嵐に見舞われるなど、数々の苦難を乗り越え、ようやく、目的地にたどり着くことに成功したヨナタンであったが――。

一方、いよいよ衰弱の激しくなるジョナサンは、気がつくとネシャン世界の「英知の庭」で、第六代裁き司のゴエルと対面していた。自らの使命を聞き、ヨナタンと自分との関係を知ったジョナサンが選んだ道とは――。

「あなたがしなければならないと信じていることをすべて、ぼくは許します」

感想

マイナス評気味ですので、ご注意下さい。

ネシャン・サーガは、不完全な世界を完全な世界へと再生させる物語なのかもしれません。でも、「完全」というものは、どこか恐ろしいところがありますよね。唯一絶対があって、それ以外は認めないといった印象が、どうしても付き纏います。これは、ネシャン・サーガの世界に色濃く影響を与えているキリスト教が、一神教であることにも関わっているのでしょうか。

ヨナタンたちが求めるのは、悪の存在しない、正義の世界です。確かに、悪は憎むべきものでしょうが、ゼトアが完全な悪ではなかったように、誰もが、ただ一つの側面しか持っていないわけではありません。また、悪とされる事柄も、不変ではなくて、その時の状況や価値観によって異なってくるものです。

たとえ、悪を為すものがいなくなったとしても、悪そのものは消滅しないような気がします。多様性を認めない世界は、変化などまるで起こらない、時の止まった世界と同じです。もしかしたら、それこそが「永遠」と呼ばれる――けれど、限りなく死の世界に似た――世界なのかもしれません。澱んだ水は、いつか腐り果ててしまうように、流れ流れていかなくては、きっと世界は生きながら死んでしまうものだから……。

悪は、あってもいいのです。人がそれを選びさえしなければ。ネシャンの世界が完全を目指すあまり、悪の存在すべてを否定してしまいそうなところが、少し気になっています。悪も正義も存在して、初めて、世界は「完全」となるのではないのかなあ。

あと、今回、引っ掛かってしまったのが、ギンバールの死と、その蘇りです。ジョナサンがあっさり現実世界を捨てて、ヨナタンとしての生を選んだ――すなわち、ジョナサンとしては死んでしまう――ことについても、同様のことを感じたのですが、この物語の世界において、死の持つ意味とは何なのかと、疑問を持たずにはいられませんでした。あくまでも、再生に到る過程にしか過ぎないのでしょうか? 彼らは、一度死ぬことで、もしかしたら完全な生を得たのかもしれないけれども、何となく、それまでの生が否定されるようで哀しいです。もちろん、すべてがリセットされてしまっているとはいいませんが……。何だか、あまりにもあっけなくて(^^;)。

……ということで、話の展開に、多少不満の残る巻となってしまいました(^^;)。果たして、完全となったネシャンの地は、いったい、どんな姿を見せてくれるのか続きを待ちたいと思います。

(2006.03.21 読了)

「ネシャン・サーガ 7 新たなる旅立ち」  ラルフ・イーザウ著  あすなろ書房  ★★★☆

あらすじ

ジョナサンと一体になったヨナタンは、「英知の庭」で、第七代裁き司として、第六代裁き司ゴエルに教えを受けていた。そんな彼の下に、セダノールでの異変を知らせに、フェリンとギンバール、二人の旧友が訪れた。いよいよ、バール=ハッザトとの決着をつける日が近づいて来ていることを悟ったヨナタンは、バール=ハッザトの邪悪な力を世界に波及させる、彼の六つの<目>を破壊すべく、まずは東に旅立つことにしたが――。

一瞬一瞬の出来事が克明に脳裏によみがえる。睡眠はなんの役にも立たなかった。何一つわすれていない。

感想

マイナス評気味ですので、ご注意ください。

前巻に引き続き、あっさりとヨナタンとして生きることを選択してしまったジョナサンに――もしくは、ジョナサンの生を捨ててしまったヨナタンに――どうしても納得がいかず(^^;)、満足度は低めとなっています。ジョナサンについて「あれは別の人生、はるか遠い夢だ」なんて言われてしまうと、彼の存在意義は、いったい何だったのかなと思えてならないのです。二つの世界が出てくる話だからこそ、現実世界をもう少し大切にして欲しかったというか……。

ネシャンにおいて、万物の(人間を含めて)創造主は、悪です。ネシャンは悪によって生み出された世界。『闇は光を生み出すことができない』ため、ネシャンで生を受けたものには、ネシャンを救うことができません。よって、世界の洗礼を成し遂げる裁き司は、常に地上(=現実世界)から呼ばれたというのですが……。地上が光の世界とも思えないのですよね(^^;)。地上の人間だって、元々は、エデンを追われ、原罪を背負った存在なのではないでしょうか? それは、ネシャンの人間たちと、どれほどの違いのあるものなのか、私には、よくわからなかったりします。

悪から作られようが、善は善なのだと思うのです。「イェーヴォー(善)かメレヒ=アレス(悪)かのどちらに仕えるのか選べる力を与えた」といい、すべては個人の責任に還るものだとしながらも、最終的には選択肢の一方を消滅させてしまうというのは……なまじ、この「ネシャン・サーガ」が単なる勧善懲悪の話とは思えないので、「世界の洗礼」というものに、非常に懐疑的な思いを持ってしまうのですよね。

また、コアハの力を使って人を殺したり、精神を破壊した時に感じるヨナタンの苦しみは、もっとクローズアップされてもいいのではないでしょうか。ヨナタンの「本当にこれで良かったのか」という疑問に対し、明確な答を、「あえて」出さないというのではなく、そのまま流されてしまった印象があります。このようなファンタジーの世界で、敵(=悪)を倒した時に、ここまで心に傷を受け、痛みを感じる主人公というのは、なかなか異色だと思うので、もう少し「その後」の描写があっても良いような気がしました。

……と、何だか、ダメ出しばかり書いてしまい、すみません(^^;)。面白いと思うだけに、つい、注文が多くなってしまうのかな(^^;)。

そうそう、ヨナタンとビティア・ヤミナとのやり取りが楽しかったです。ヨナタンって女心がわからないタイプですよね(笑)。恋愛慣れしていない所為か、女性陣の勢いに押され、あたふたしているのが微笑ましかったです。

……そんなこんなで、物語もいよいよ佳境に入ってきました。バール=ハッザトのすべての<目>を、どのように探し出し破壊していくのか。またしばらく、ヨナタンと共に旅を続けたいと思います。

(2006.03.25 読了)

「ネシャン・サーガ 8 セダノール攻防戦」  ラルフ・イーザウ著  あすなろ書房  ★★★★

あらすじ

バール=ハッザトの第一の<目>を、ハシェベトの力によって破壊したヨナタンは、<目>の番人であった竜に、その他の<目>が存在する地への交通手段となってもらうように要請した。竜の背に乗って旅を続けるヨナタンたちは、かつて「英知の庭」に向かう旅の途中で訪れたことのある<破滅の町>アバドンに到着した。

一方、闇の国テマナーの恐ろしい軍勢が、セダノールに迫ろうとしていた。とうとう、セダノールがテマナーの手に堕ちようとする、その時、必死に戦うフェリンのもとに、頼もしい援軍として現われたのは――。 

目と耳は信じやすいのだ。自分の内側をよく見つめ、自分の感覚に従うのだ。

感想

満足度の割りに、感想を書いてみたら、けっこう辛口気味になってしまいました(^^;)。ご注意を。

この巻は、まさにフェリンの巻とでもいいましょうか。父・ツィルギス帝や皇太子である兄・ボーマスとのやり取りに、心動かされました。自分を自分として見てもらえず、兄のできそこないのコピーとしてしか相手にされていなかったフェリン。捩れてしまった関係の中にあってもどこか真っ直ぐに育った彼は、当初からたいへん好みの登場人物でしたが、ここに来て、その思いを新たにしたという感じです(^^;)。

結局、何だかんだといいながら、父も兄もフェリンのことを愛していたわけで……。遠回りしてしまったかもしれないけれど、最後の最後で彼らの思いがフェリンに伝わって良かったなと思います。それにしても、この関係って、「指輪物語」のファラミア・ボロミア兄弟を思い起こさせますね(^^;)。お互いがお互いを愛しているのに擦れ違っていて、死の間際になってようやく届く思い――。取り戻せない時間が、哀しいです。

フェリンがヨナタンに二人の蘇りを願ってしまう気持ちも、痛いほどにわかります。目の前にある力が、なぜ、自分のためには使われないのか。奇跡は数少ないから奇跡なのであって、当然のように為されたら、自然の摂理と変わりないことになってしまうでしょう。それがわかっていたとしても、「なぜ? どうして?」という疑問は止められません。決して平等に与えられることのない奇跡は、時に残酷ですね。それでもなお、「もしかしたら」と祈らざるを得ない思いは、本当に切ないものだと思います。

死んだ人は、決して生き返らない。物語が、もし、これを覆すなら、相応の形で見せてもらわないと、後には哀しみが残るだけです。だって、諦められないのは辛いでしょう。だったら、いっそ、奇跡など見せられない方が幸せなのではないかな、なんて。どうしようもなく定められているということは、ある意味、大いなる救いにもなるはずだから――。

ギンバールの復活よりも、ツィルギス帝とボーマスの死の不可逆性に、哀しみと共にではあっても、安堵感を覚えてしまうのは、たぶん、自らに起きない奇跡を、たとえ物語の中でも信じることができなかったからかもしれません。

◎     ◎     ◎     ◎     ◎

フェリンとヤミナが恋に落ちるのは、安直だなあと思いつつ、明るい話題なので、まあ、ありなのかな、と(笑)。ただ、ヤミナがいきなり「<東域>の姫君」扱いされているのはどうにも解せません(^^;)。いくら男尊女卑の部族にあっても、姫君を奴隷に売り払いはしないような気がするのですけれど……。

あ、フェリンに出会ったために、あっさりとセダノールに残留を決めるヤミナと、結婚を盾に、やはり残ることを承諾するビティアには、女性の強さを見る思いがしました(笑)。ちゃっかりしている二人が、実はけっこう好きだったり(笑)。しっかりと地に足つけて、現実を生きている感じがして、ね。

いろいろ気になるところもありますが、王道でお約束な展開は、とても心地よいものです。次は最終巻。バール=ハッザトとヨナタンの決着がどのように付けられるのか、楽しみです。何といっても、物語は「終わり方がすべて」ですからね(笑)。

(2006.03.28 読了)

「ネシャン・サーガ 9 裁き司 最後の戦い」  ラルフ・イーザウ著  あすなろ書房  ★★★★

あらすじ

第二、第三の<目>を、無事に破壊し終えたヨナタンは、第四の<目>を求めて、懐かしい「禁断の地」へ向かった。ヨナタンの旅も終盤に近づいていく。ディン=ミキト、夢の島との再会を経て、舞台は、いよいよ、バール=ハッザトの本拠地「暗黒塔」へ。そこに、またしても現われたのは、バール=ハッザトの忠実な僕、ゼトアであった――。

世界の洗礼は、果たして成就するのか。バール=ハッザトとヨナタンの、最後の戦いが始まる――。

人間はみずから善悪を判断しようとしたため、<喜びの庭>ガン・エデンから追放された。メレヒ=アレスにそそのかされたのは本当だが、人間がイェーヴォーにそむいたのは、みずからの意志でもあった。

感想

シリーズ最終巻。とても面白い作品だったのですが、感想を書いてみたら、どうも辛口な部分が多くなってしまいました(^^;)。ご注意ください。

◎     ◎     ◎     ◎     ◎

6巻の感想で、ネシャン・サーガは「不完全な世界を完全な世界へと再生させる物語」ではないかと書きましたが、それに加えてもう一つ、「人間が神から罪の許しを得るまでの物語」だといえるのかもしれないなと思いました。

ここでの罪とは「みずから善悪を判断しようとした」ことにあります。この物語では、しばし、「悪を憎むことと、悪人を呪うことは一つではない」という考え方が示されますが、これはすなわち、悪を選ぶことが初めから許されていなければ起こらなかった問題であるということをも、意味してはいないでしょうか。イェーヴォーなら決して選ばない悪を、自由意志を持った人間であるがゆえに、選んでしまう。それは、もしもイェーヴォーにすべてを任せていたなら、あり得ない罪です。でも、人は、選ぶことを知ってしまった――幾度となく繰り返される悪の選択を人間が断ち切れないからこそ、ヨナタンは、悪そのものを滅ぼさなければならなくなるわけです。

<涙の地>ネシャンは、イェーヴォーが創造した世界の不完全なコピーだといいます。その不完全さゆえに悪が存在するのかもしれませんが、まるっきりの無から有が生まれるとも思えません。つまり、世界は元々、悪を内包していたのではないかと。

「悪」もまた、イェーヴォーの創造物だとしたら、それを選んでしまった人間にも許される余地があります。ただ、選んだことが罪なのです。その罪を購う手段が、イェーヴォーへの絶対的な信仰への回帰――選ぶことの放棄に繋がるのではないでしょうか。そして、「世界の洗礼」を経て、すべては一度、死を経験し、新しく生まれ変わる。許された生は、再び、悪を選ぶことなく、世界は永遠に存在し続けることになるのです。

……ここまでの書き方で察せられるかもしれませんが(^^;)、私は、「イェーヴォーへの信仰」ですべてを解決させてしまうことに、非常に引っ掛かりを覚えます。いえ、「ネシャン・サーガ」は、そうした話ではないのかもしれませんが、私には、神を決して疑わないこと、すべてを神に委ねることによって、穏やかで喜びに満ちた世界ではあるけれども、画一化した、時の止まった「永遠」の世界を得てしまった物語だという気がしてならないのです。

バール=ハッザトとの最後の戦いにおいて、彼がヨナタンに見せた心の奥の疑惑や闇は、ある意味、「真実」を突いてはいないでしょうか。物事の一面しかバール=ハッザトは語らないというけれど、逆に見れば、一面であることは確かなのです。その一面を、しっかりと受け止めることなく、イェーヴォーへの絶対的な信仰という答に、ヨナタンが逃げてしまった――あえて「逃げた」と表現させてもらいます――ことが残念でなりません。

信仰とは、当たり前かもしれませんが、何かを信じることです。そして、信じるということは、その「何か」以外を知った上でなお、「何か」の方を選択するということなのだと思います。信仰を重要視するあまり、「選択する」という部分を失ってしまうのは本末転倒なのではないかな、などと考えてしまうのは、穿ち過ぎというものでしょうか(^^;)。

愛とは、信じることですらない。ただ、決して疑わないこと――それは本当にそうだと思います。愛は絶対にあるとも思っています。しかしながら、ヨナタンがバール=ハッザトに勝利した<全き愛>の力を、手放しで信じられない私は、結局、愛を知らないということになるのかなあ(^^;)。

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ファンタジーの王道を行くストーリー展開は、とても面白いものがありました。何か自分に信仰しているものが存在するかしないかで、また違った感想を抱きそうな物語です。

(2006.03.29 読了)

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